絶対―相対
今学期はビジネス関係の日本語を担当しているせいか、敬語表現が頭の中をぐるぐるめぐってます。いったいなにがどうしたら「丁寧」なのか・・・。回路の配線があまりにも多くて、私はとても自分では考えようとは思いませんが、研究する人が多いのはわかる気がする・・・。もっともっと研究して整理してほしい・・・(←人任せ)
日本語と韓国語の敬語表現の違い(といっても私にはよく言われていること以上の違いは説明できませんが)の原稿を作っていて・・・日本語の相対敬語っていうのは、絶対敬語の国の人、韓国の人にはやはり理解が難しいだろうなあ・・・と改めて思う。他の会社の人前では自分の会社の社長を呼びつけ・・・、社長と二人のときはもちろん社長に敬語・・・これはなかなか難しい・・。
思ってみると、この「相対」と「絶対」という価値観(?)、敬語だけの話だけでなくて、いろいろなところに染み付いている気がする。私自身が感じる堅苦しさというのの要因の一つはこの「絶対」というものにあるのかも、とも。
そんなことをふと考えたのは、あるエッセイを読んでいたことなんですが、それは、(うろ覚えですが)
その筆者がフランスの修道院の近くに行ったときのこと。貧民街のようなところがあり、足の悪い女の子がいた。どこかの施設からか配られた簡易的な服を着ていたが、その服の生地には「私は恵まれない、哀れな、卑しい子です」と言った文句がプリントされていた。もちろんその文字をプリントしようということ自体が信じられないことではあるけれど・・・その子はフランス語を理解できるばっかりに、その言葉に苦しむだろう。言葉を知らなければ救われることもあったかもしれない。そう考えると、自分たちがよかれと思ってしている教育も必ずしも全ての人によいものとなるとは限らないのではないか・・・・
と言った趣旨のもの。かなり極論ではあるけれど、私としては、何か腑に落ちた。「自分のしていることなんてたいしたことないわ」と卑下する必要はないけれど、「必ずしもよい効能を生むとは限らない」「状況によって価値は変わりうる」という前提って実は必要なんじゃないかなぁと。絶対的に価値があるとは誰も言い切れない、ということ。
韓国に来たばかりのころ、どの場であっても「先生」であることを強いられてすごく窮屈だった覚えがあります。特に大学院は私よりも年上の人も多いし、私は教室を出たら逆に学生さんたちにいろいろ教わることが多いなあ、と思っていたのですが、周りの「教授」はそうではなかったようで・・・。「先生らしく」と何度も言われていて。学問の上では仮に何か教えることがあったとしても(また語学教師の場合少し違う気もするけど)、それが人生においての上下関係とは何ら関係ないと私自身は思うんですが(そもそもそんな上下関係ないし)・・・このあたりも「絶対」がどうも窮屈に感じた要因だった気がします。
「先生」つながりで思い出したんですが、大学時代の哲学だったかキリスト教だったかの先生(たしかスペイン人の牧師の先生。仕草がカメに似ていたので友だちとカメ呼ばわりしていたので、本名を覚えていない^^;)が、「コーヒーがここにあるとして、私は砂糖を入れて甘くすることはできない。私ができるのはそこに沈んでいる砂糖をスプーンでかき混ぜることぐらいです」と言っていたのを思い出しました。ここには先ほどの話とはちょっと違う要素も混じっていますが、このスタンスのほうが自分にはしっくりくる気がしています・・・。


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