December 23, 2006

ことばが作る空気

教育大学院の卒業生と久しぶりの食事。みなさん、教員試験(この競争率は今年は20倍ぐらいだそうです)を終えて、一息ついているところ。このところ、「試験どうだった~」と、みんなに会う機会が続いています。

その日は2人だったので、気軽な食事。韓国語と日本語が行ったり来たり。相手が日本語がとても上手だと、「わからなくなったら日本語混ぜればいいや」とかえって気軽に話せたりもします。

不思議なことに、教育大学院のみなさんと会うと韓国語で話すことが多いです。学部生とは韓国語で話すことはまずないかも。(飲み会でふざけて話すことはありますが・・・^^;)別にポリシーというわけじゃないんですが、大学院生のほうがはるかに日本語上手なんだけど・・・、学部生には「日本語」を教えている、という感覚からか、なんか日本語で話してほしい、と思ってしまうんですよね。私の中途半端な韓国語もなんか学部生の前では恥ずかしいっていう気持ちもあったり。「日本語」を教えていると、やっぱり韓国語もちゃんと話さなきゃという意識がどこかにあるのかな。

逆に大学院生の前では、「日本語そのもの」を担当していたわけではないからか、あと教師というよりも同業者という感覚からか、同世代の友達(事実卒業生はたいてい友達化してる・・・)という感覚からか(実際話題も「最近疲れやすくなってるんだけど、なんかいい漢方薬ある?」とかそんな感じ^^;)、気軽に話せれば、変な韓国語でもいいや、という感じがどこかあります。

来た当初は韓国語がまったくできなかったので、みんな日本語で話してくれてたんですが、いつからかチャンポンに。それで、大学院生の方にああ「이제 한국말로 이야기할 수 있어서 너무 편해~」(これ、訳しにくいんですが、「韓国語で話せるから楽だわ~」という感じかな)と言われたときのこと、今でもよく覚えています。

この「日本語で話してくれてる」感が本当になんとも辛い時期がちょっとありました。気にしない人はたぶん全然気にならないし、別に気にすることでもないような気がしますが、私が話の輪に加わることで、日本語に話が切り替わる、「空気が変わる」という感じがなんとも申し訳ない、というかなんというか。今思えば日本語もみんなぺらぺらなんだし、気を遣ってくれてるっていうこともなかったんだと思うんですが、一瞬、ほんの一瞬なんだけど、空気が変わる感じが。

これも個人差もあるようです。私の学校に2人の日本人の先生が同時に去年いらしたんですが、一人の方が私が感じたようなことをちらっとおっしゃっていて大きくうなずいてしまいました。学生の輪に入ると「日本語を話さなきゃ」という空気が生まれて、学生に負担をかけているような感じがすると。もう一人の先生はぜんぜん気にしない。がんがん日本語で話しかけていく。

話したいことが言えない、とか単語が出てこないとか、というのは別に、この空気が変わる感じが、ひとつの「ことばが話せない自分・・・」を感じさせる要因(劣等感??)にもなるんだな、ということ。そういうことに敏感であった方がいいのか、別にそんな必要はないのか、はよくわからないけれど・・・。私の中に残ったその感じは、覚えておきたいし、日本語を教える上でどこかでそんなことを感じる人(学生さん)がいるかもしれない、ということは覚えておきたいような気がしています。

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June 15, 2006

省エネコミュニケーション

・・・今日も観てしまいました。

NHK BS2の「知られざる野生」

朝は「純情きらり」で始まって、

→「君の名は」(まだ第一部なのにすれ違いの連続、第二部まで持つんだろうか)

→「毎日モーツァルト」(「君の名は」のすれ違いぶりにいらいらしているところをなだめてくれる)

→「楽しいペット相談」(知られざる野生への序章?)

と続くのですが、その時点でもう8時30分、そろそろ出発する準備を、と思うのですが、ここでこの「知られざる野生」が始まってしまうと(日替わりなので毎日やるとは限らない)見入っちゃうんですよね・・・

今日の主役は世界で一番高いところに住むといわれる、ゲラダヒヒ。エチオピアに住んでいるらしい。

↓これ。japan.discovery.com/animal-planet/episode/epiintro.php?id1=203792&... より借用

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80度ぐらいの傾斜のがけに住んでいて、家族が何組か群れで住んでる。ただサル山みたいに、完全に上下社会があるわけじゃなくて(家族の中ではあるらしいけど)、家族同士がうまく共存するように暮らしてる。もともとは生存している数ももっと多く生存地域も広かったらしいけど、どんどん生存競争に負けて、住むところを追われて追われて・・・追われてるうちに、世界で一番高いとこにすむことになってしまったらしい(かなり意訳的解釈)

動物の「生きる知恵」って、人間からは思いも寄らぬ方向で現れるので、好きなんですが・・・

ゲラダヒヒの場合は、わずかな生き残りってことでか、「あくまで共存共存・・・おだやかにいこう」っていう共通認識があるらしく、なるべく直接争うことを避けるための知恵がある。

しかも、毎日80度近い傾斜を上り下りして疲れてしまうからか、体力温存の方向で・・・

「威嚇」っていうのはどんな動物でもあるものだと思うんですが、このヒヒの場合は、「こら―!」ってなると、上唇をべろっとめくる。(牙を見せるためらしいですが)

さらに、こらー!となると、直接相手にかかっていくんじゃなくて、とにかく手当たり次第、木を横飛びして蹴る。あ、これは結構体力使ってますね。でもその怒りの相手を目の前にして、木に横飛びしまくってる(本当に木に対して垂直でびっくり)姿が、なんか木に対して「ばかぁ~。ばかぁ~」ってやつあたりしている半泣きの子みたいでおもしろい。

それから、威嚇ではなくて、家族間とかでも、ちょっと怒ったときとか、「むっ」したとき・・・、これがすごい。「怒ったぞ―!」となると眉毛がみるみるうちに白くなる!

怒りの度合いと共にどんどん白く・・・

すごい・・・身動き一つせず、声一つ出さず、怒りを表現・・・。

これらと鳴き声をいろいろ組み合わせてだいたい32種類の感情表現を使い分けてるらしい。

人間のコミュニケーションも、顔のいろんな部分の色が変わることで感情を表現できたらおもしろいですね。鼻の頭が赤く点滅して、「あ、喜んでる」とか。それでも、それをうまくコントロールできる裏腹な人とか、思わぬ色に変化させる器用な人とか、どんどん生まれてくるのかな・・

そんなことができないヒトとしては・・・相手が思いっきり怒っちゃったとき、眉毛が白くなっていくところを想像してみるとか、自分にふつふつと怒りがわいちゃったとき、眉毛が白くなってく度合いをイメージしてみるとか・・・できるのは、そんなことぐらいかな―。

そんなことしてるうちに「怒り」、消えてきそう。そんなシチュエーションに万が一遭遇してしまった時、まずはこの知恵、お試しあれ~。

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June 07, 2006

いいと感じる証拠を示す

日本語関係の方なら、経験あるかと思うんですが・・・

学生時代の先生や先輩などにメールを書く場合、ひじょ―うに気を遣ってしまう。

相手が日本語のプロであるだけに、この表現は適切だろうか、とか、失礼はないだろうか、とか・・敬語はあっているんだろうか・・とか

さらに、依頼の仕方は「負担度」に相応しているだろうか、依頼の内容と前置きの仕方は合ってるんだろうか、しめはこれでいいんだろうか・・、はてまた文章の展開の仕方はいいんだろうか、などなど、止まらない。

以前親しい先生にこんな話をしたら、ご自身の指導教官が敬語の第一人者だったとかで、その先生のご退職の時に書いた手紙はえらく気を遣ったとか。やっぱりみなさん、同じなんでしょうかね。

前に、大学院時代の先輩(といってももう立派な教授で大学院の授業とかも持っている)に久しぶりにメールを書かなきゃいけなくて、これもまた気を遣った・・相手は文章論の先生なので、気を遣う範囲も広い・・。

一つのことをお願いするにやたら時間がかかってなんとかまとめた。そこで、難しいなあと思ったのは、手紙の時の始めと終わりの挨拶をどこまでメールでも用いるか、ということとタイトルのつけ方。手紙の方が時候の挨拶とか定型化しているから、むしろなぞるだけですむという点で楽なのかも。メールにおける丁寧さってまだまだ未開拓ですよね。

メールの形ってまだ定まっていないような気がします。「前略」とか時候の挨拶とかをしっかりつける人もいるし、むしろそれは過剰だという人もいる。一般化していない分、その辺の感覚が自分と受け取る人が同じとは限らないので、さじ加減が難しいですね。

そのメールから数ヶ月たって、その先生(メールの相手)が出した、文章論の本を読んでいます。(もっと前から読んどけばよかったんですが)

たぶん学部生も対象に入れているのか(学部の授業の講義ノートを基にしているようです)、かなり平易な文章で書かれていてわかりやすい。特筆すべきは、たとえば「依頼のメール」を学生に書かせたあとで、さらにその中の数点を学生に見せ、どれがよかったか、どういうポイントがよかったかを評価して書かせ、その結果をデータ(順位)として示す。そのデータをもとに、よい文章のポイントを探る、というもの。150人ぐらいの学生の「なんとなくいいと感じる」ポイントをわかりやすく整理しています。読んだ人の立場に立ち、なぜよいかを考えることで、自分も文章を書くときに、読みやすい文章を心がけるようになると思います。

さて、その本には、実際のメールの書き方や、タイトルのつけ方までしっかり扱っているのですが、その基準によると、タイトルのつけ方、依頼内容までの展開の仕方・・・ミスが多かったかも・・・。ふぅ、やっぱりプロにメールを送るのは大変だ・・・

話はがらっと変わって、上級の作文クラスで新聞の社説の要約の課題があって、添削していて気づいたこと。

日本語の能力と要約の完成度は比例しない・・・(これはもう有名な話かな?)

といっても、じゃあ何がいい要約なのか、説明するのが難しく、フィードバックをまとめるのにすごく時間がかかりました。(すごく勉強になったけど)文章論をやる人は「要約」「要約」と言うので、そんなに重要かな~と懐疑的だったのですが、やっぱりまだまだ自分でわかっていないところ、勉強不足のところ、多いです。

なんとなくいい要約、ってことは感じても、その印象の要因を形で示すって難しい。ネイティブ同士だったら、「なんとなく」でわかることも、学習者には、しっかりある程度「カタチ」で見せること、ある意味証拠を見せることも必要だし・・・。何かを読んで、なんとなくいい印象を持つ、あるいはいやな感じを持つ、その無意識の感覚を意識化するのが面白いと常々思ってるんですが、「要約」が相手となると・・・なかなか手ごわいです・・。

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March 23, 2006

感触から感情へ

またまた「ウザい」の話は続きます。しつこくてすみません。

「ウザい」にまつわる↓のようなことを50代のO先生(男性・日本人、以下O50先生とします)、30代のO先生(女性・日本人、以下O30先生とします)と話していたときのこと。

もちろん「ウザい」は「うっとおしい」から来ていることは間違いないと思うのですが、O50先生の世代では、「うっとおしい」という表現はかつて(子供の時とか)、例えば蛙を手でつかんだ時に感じるぬめっとした感触を指していたそうです。なにかがまとわりつく感じというか・・・。これは今の感覚にはないですよね。ぬめっとした質感は落ちて、まとわりつく感じだけが残って、嫌悪感のようなものに結びついたということ・・かな。

オノマトペ(擬音語・擬態語)の研究をなさっているO30先生お話では、このように感触が感情に移行するというのはよくあるそうで、例えば「いらいらする」というのも、元は花の茎についている「いが」を触った時の感覚から来ているそう。具体から抽象へというのは語の意味の変化の過程でよくあることですが、感情表現と感覚が結びついてるの、すごくおもしろいです。

ちょっとずれてしまうかもしれないけど・・「むかつく」なんていうのも、もともとは「胃がむかむかする」といった内臓の感覚?感触から来ているんだろうし・・・。そう考えると、もっといろいろ出てきそうですね。

以上は居酒屋で焼酎を飲みながらの会話だったのですが、居酒屋での会話が一気に学問的領域に飛び込んでしまうことってよくあります。みんなで自分の語感とすり合わせながら「それは言える!」とか「言えない!」とかいいあったり。あーでもないこーでもない、と。よく考えると、言語学ってすごく生活と結びついた学問だよなぁと思います。言語はどんな形であれ(非言語も含めて)誰もが持っているもの。自分の持ち物を、みんなで並べあって話し合う。「三人寄れば・・・」が成立してしまうのも、この学問の醍醐味のような気がします^^

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March 18, 2006

名前が先か、概念が先か・その後

「もしかしたら、韓国には「ウザい」の概念がない?」との疑惑ですが・・・・

本当に対応する言葉がないのかどうか、今のところよくわかりません・・・。

昨日、ドラマ『1リットルの涙』(泣ける!と聞いてダウンロードしてみました。まだ1話目だからよくわからないけど・・期待!)で、

父親にあれしろ、これしろと言われた主人公の妹が「もうお父さんウザ~い」というところがあったんですが、韓国語字幕は

「듣기 싫어~(聞くのやだ~)」

ふむ。これだとやっぱり、「(自分の気持ちが)いいか、いやか」しか出てこなくて、「相手の干渉をけむたく思う」っていうニュアンスが出てこないような・・。相手の干渉?攻撃?(ありがた迷惑的)好意?あっての「ウザい」だからなぁ・・・。

というわけで、今のところ、「ウザい」に対応する韓国語はない説、有力です。

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February 28, 2006

ことばにまじめ

ある言語学者(日本人・男性)のコラムより。

中国人の奥さん(この方も言語学者)が夕食時にいつも「どれが一番おいしかった?」と聞く。う~んといつも考えてからいろいろと答えるのだけれど、それが奥さんには不満らしい。というのも、奥さんとしては、「どれが一番おいしかった?」というのは、会話のきっかけに過ぎず、別にその答えが重要なのではなくて、話を途切らせないことが重要なのだと言う。それをきっかけに話を膨らませるのが目的。だから、軽く答えればいいのだと。

質問されるとつい誠実に答えようとしてしまって、一つ一つの答えを重く考えてしまう。日本人はどうも言葉に出すことを重く捉えがちなのではないか、というのがその言語学者の弁。

さらに・・26-27日と学科のワークショップがあり、地方に団体バスで行った際、バスの中で時間をもてあまし、隣に坐ったM先生(日本人・男性)と話す。

なんとなく出てきたテーマ。「なぜ日本にはキリスト教は根付かなかったのか」(バスの中で話す内容にしては重い・・・)

M先生の意見としては、「善」と「悪」という二項対立、「正義」・「善」だけが救われるという弱者を排斥する思想が日本人の思想に合わないのではないか・・・とのこと。

確かに、「善」と「悪」とを二分すること、それを公言してはばからないことは、どうも日本人の思考にあわないのかな、と思うこともある。

もっと明確にしようとすれば、「善」と「悪」とを二分することそのものより、、「善」と「悪」と二分することを言葉として表明することに抵抗があるんじゃないかと思います。これはあくまでも私の感覚ですが、日本人には、「言霊思想」というか・・・、言葉にしてしまった時点で現実の事実として成立してしまう、という感覚が強いのではないかと思うのです。だからこそ、冒頭のコラムのように、言葉にすることを重く捉えてしまう。言葉で表すことと、現実として成立してしまうことを同一視しているというか・・・。(忌み言葉とか多いのもそういうのが関係あるのか・・?)

逆に言えば、言葉そのものを恐れ敬う、畏敬の念を抱くという感覚を持っているのかもしれません。言葉に対してまじめに向き合っているような気がします。(時には生真面目に・・)よく言われる「日本人はあいまいだ」というのも、言葉そのものに畏敬の念を抱いているからこそ、明確に述べることを恐れる、という思考が裏にあるような気がします。言葉と現実の間の距離がないと考えるから、言葉にしてしまうと現実として成立することを恐れているというか・・・。私はこの「日本人はあいまいだ」というのをあまりネガティブにとらえてはいないんですが。

他の国のことはよくわかりませんが、言葉と現実との間に距離を保っている文化の中では、案外はっきりと何でも言えてしまうのかもしれません・・この辺りはもうちょっと検討が必要そうです。

ともあれ、冒頭のコラムとM先生との対話、ちょうど「日本人はことばにまじめ」というキーワードでくくれそうだったので、メモとして残しておきます。まだ考えがうまくまとまっていないんですが、このキーワードで解ける現象は他にもいろいろあるかもしれません。

別々の話が、こうやってリンクしたりするのがすごく面白いです。ワークショップ、夜3時近くまで飲んで騒いでしていましたが、私の中ではこの二日で有益だったのはこのバスの中の会話だったりも(以下省略)。

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February 17, 2006

仕事と変換

以前にも少し書いたことですが↓PCの変換操作にはなかなか考えさせられるものがある。

「やすみではありません」と書いて

「変換!」→「休みではありません」

・・・と思ったら

「休みはありません」

・・・・・・。

うっかり「やすみちぇはありません」と打っていたのですね・・・。

数多いこの国の崔さんのために、ちぇ=崔で登録していたのですね・・・。

こんなところにも崔さんが現れるという自分の状況にしばし驚いてしまいました・・

ちなみに、

「ふくし」は「福祉」ではなく「副詞」

「しゅうしょく」は「就職」ではなく「修飾」

が一発で出てくる。なんとなく世間から遠ざかっていることを感じさせる変換です。

<参考談話(業務連絡)>

Wさん&Jさんより 幸子→さち子 

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February 09, 2006

「擬音語の活用」のススメ

「フクダカヨ絵日記」「擬音語の活用」を読んで、納得。八つ当たりのときに「どぉーん」とか。確かに、悲壮感がなくていい。そうそう、大人ももっと擬音語を活用してしまっていいのだ。

・・・・と我が身を振り返ってみると、それなりに活用しているような気がしてきた。

例えば、J氏との会話。私の韓国語は豊かな表現力とは程遠いから、例えば、

「今日は一気にいろんな仕事が押し寄せてへとへとに疲れて磨り減ったって感じ、体がだるくてどうも重いんだよね」

と言いたいとしても、いいたいことに言葉が追いつかなくて

「너무 피곤해 とても疲れた」

具体的に言いたくても「とても」とか「すごく」とかでつい簡単に済ませてしまう。するとどう疲れているのか、うまく伝わらないし、伝えきれないストレスが溜まってしまう・・・。

そこで、ふと言ってみた。

「오늘은 피곤해(今日は疲れた) どぉーーーん ずぶずぶ ばたっ の疲れた」

J氏は何事か?ときょとんとしていたけれど、しばらく考え、「そうか・・・・・どぉーん ずぶずぶ ばたっ・・・か。」と何かを受け取った様子。

「日本語力の向上!」とか「豊かな表現力」とか叫ばれているご時世で、何か逆流しているような気もするけれど、たまには音と想像力に任せて伝えてみるのも悪くない。

・・・ただし、お互いの母語が違う場合、ちょっと注意が必要かも!?

例えば、同じ「鶏の鳴き声」を聞いても、日本人には「コケコッコー」と聞こえるけれど、韓国人には「コッキヨー」。犬は「ワンワン」と「モンモン」。

なんか聞こえる音と響きのイメージって違う可能性もあり、だ。

外国語の擬音語を覚えようとすると、どうも自分持っている感覚と音の響きが合わないということもある。

たとえば、「きらきら」は韓国語では「パンチャッパンチャッ」

小説の「きらきらひかる」は「パンチャッパンチャッピッナダ」となるわけですが…どうでしょう?・・・ほんとにちゃんと光ってるんでしょうか・・・^^;?

「うねうねした道」の「うねうね」は「グビグビ」・・・。喉が鳴ってる音にしか思えないんですが・・^^;

冗談がしらけた感じ、寒い感じの「しら~」は「ソルロン~」・・・。

静電気が走ったときの「びりっ」は「チリチリ」・・・これはまあわからなくはないか・・

やっぱり、音の響きと自分の感覚がなかなか合わなくて覚えにくい。擬態語・擬音語の対照研究する人が多いのがなんかわかる。同じ様態を見ていても、つける音が違うということ。母国語の違いがどういう音の違いをもっているのでしょう!?

と、振り返ると、「どぉーーーん ずぶずぶ ばたっ の疲れた」は、ちゃんと

「「へとへとに疲れて磨り減ったって感じ、体がだるくてどうも重いんだよね」の疲れた」

として受け止められたのかどうか心配になってきますが・・・。

・・・・・・・。

無事に伝わっていることを祈ります。

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名前が先か、概念が先か

よく言われるところですが、韓国人の女の子の彼氏への甘え方はなかなか激しい。「나 예뻐?(ナ イェッポ?)私、かわいい? 」は当たり前。

「○○사줘(○○サチョ~)○○買って~」

「나 하고싶지않아 오빠가 해줘(ナハコシプチアナ オッパガヘチョ~)

私はしたくない。オッパ(後述)がして~(とすがる)」とか…

韓国語では年上の男性の呼称「오빠~(オッパ~)=おにいさん」があるので、「オッパ~、オッパ~」と連呼するその響きが甘えているように聞こえる、というのもその要因かも、ですが。全体に語尾を伸ばし気味にするし・・

いかつい男の子たちが、彼女のハンドバッグとかを肩にかけ、「はいはい♪」と嬉しそうになだめているのを見ると、韓国男子、すごいなあ、尽くすなあ・・と呆然としてしまうことも。男の子としても「頼られてる感」が心地いいのかなあ!?

反対に、韓国人(男)-日本人(女)というカップルでは、彼女の方の甘え方が足りず、男の子としては「何か物足りない・・・」ということもあるらしい。いろいろ聞いてみると・・・

○「何か買いたいものある?」と言って、「別にない」と答えられて寂しかった。せがんでほしかった。

○自分の荷物は自分で持つと言われて寂しかった。

○自分(彼)の誕生日に「サークルのスキーツアーの予定が入ってしまいそう」と言ったら、「そう、行ってらっしゃい」と言われて寂しかった。「行かないで~」と言って欲しかった。

○他の女友達から自分(彼)に電話がかかってきて、普通に流された。(「誰?」「やだ~」と言って欲しかった。)

他苦情多数。

戦友Wちゃんとの雑談中、日本人同士だったら、「今の誰からの電話?」とか、「行かないで~」とか「○○買って~」とか「ウザい」と切り捨てられてしまう範疇だよね・・と話す。

恋人同士じゃなくても、友達同士でも「~してあげる」が多く、日本だったら「ありがた迷惑」の域に入ってしまいそうなことも多い。なんというか距離感が近く、個人の領域に踏み込むのを辞さない・・・とでも言うか。日本人にはけっこう「ウザい」と捉えられる可能性大、だ。

そこで、我々が気づいたこと。もしかしたら、韓国にはこの「ウザい」という感覚が存在しないのかもしれない。ためしに辞書で調べてみると、「ウザい」「うっとおしい」に相当する韓国語も見つからない!(注:調査不足の可能性あり、ですが)私たちが感じる「ウザい」という感覚に名前がないということ・・か。

「ウザい」という概念がないから「ウザい」という言葉がないのか、「ウザい」という言葉がないから「ウザい」という概念を意識しないのか・・・?

例えば「むかつく」と言う言葉。そんなに古くからある言葉じゃないと思うのですが、「怒る」でもなく、「嫌だ」でもないこの感情を、「むかつく」という言葉ができる前に、そこまでしっかり認識していたのだろうか?と思うのです。逆に言えば、「むかつく」と言う名前がついてから、この「むっ」という感情が市民権を得た、というかその感情を意識し、自分に「むかつく」ことを許すようになった、とも言えなくはない。

一時期話題になった「キレる」なんていう感情も、名前がつく前は、認識していない、やりすごせる感情だったのかもしれない。「逆ギレ」なんて言葉は私が子供のときはなかったと思うのですが、その状態はたぶんあって・・。でも名前が与えられていなかったから、はっきりとは認識していなかったような気がします。それが「逆ギレ」という名前を得た瞬間に、1つの状態として認識され、「逆ギレ」であることが「逆ギレ」であることとして存在することが許されたとも考えられるような…

名前があるから認識するのか、認識があるから名前がつくのか…

鶏と卵のような議論ですが・・・

さて、韓国における「ウザい」、名前がないから概念がない?概念がないから名前がない?その真相はいかに・・・?

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February 02, 2006

「わたし」の危機

朝一番、J氏から携帯電話にメールが。

(↓日本語をハングルで打っている)

「おれはいまかいしゃにいます。はやくおきてくれ(俺は今会社にいます。早く起きてくれ)」

・・・・・?何事かと思った。なんかスパイかなんかの指令か?と思った。(「俺」と「います」のバランスが悪いが)

・・・・ついに来た。「わたし」の危機だ!だいたい学生さんたちは日本語を勉強してしばらくすると、ドラマとか漫画とかで「俺」を見てしまうらしく、嬉嬉として「俺」を使ってしまうのです・・。語尾はまだ「います」とか「行きます」とか「学生です」とかなのに・・・。しかも「起きてくれ」ってそんな切迫感のある・・・「~てください」のタメグチは「~て」だって前に教えてたのに…。

J氏にもついにこの時が来てしまったか・・・。そういえば、この間ドラマの「眠れる森」(古い!:インターネットでダウンロードした韓国語字幕つきのもの)を見たと誇らしげに言っていた。たぶんその中でキムタクあたりが「俺は・・」とか「助けてくれ」とか言っていたに違いない・・。

まあ、いつまでも「わたしは・・・」というのも問題はあるにはあるんですが・・・(例↓「自分の呼び方」)

どうしたものか・・・。朝から「わたし」の危機に直面中です。

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December 12, 2005

共感を示すということ

大学院時代の数年間、細かい日本語のニュアンスについて、こだわり、またこだわることをよしとしてきたので、ものの捉え方がちょっと表現重視みたいなところがあった。言葉が豊かな人をすごく評価したり、表現が巧みな人(いい意味で)をすごいと思ったり。そのニュアンスに一緒にこだわれる人をよしとしてきたり。

ところが、ニュアンスどころじゃなく、ものの数え方一つもわからない韓国語の中に放り出されて(まあ自分から飛び込んだんだけど)、そうも言ってられない、というか必要以上にこだわることもないか、と軽く捉えられるようになった気がする。とはいえ、自分のこだわりどころだし、そういうものに敏感でありたいし、やはりそういうものがわかりあえてこそ、理解ができると思って・・・いた・・・はず。だから、やはり韓国語だけのコミュニケーションは苦しい・・と思っていた・・はず。今考えてみて、その結論は・・まだ保留・・。

日本語勉強を始めたとはいえ、日本語で話したら「????」のJ氏との会話は韓国語でしなければならないし、当時(もう前のことだけど)、自分の言っていることも、相手の言っていることもわかったようなわからないような、という感じだったので、ややストレスがたまり気味だった私が考えたこと。「共感ぐらい日本語で示してみよう」

たとえば、コーヒーをおいしいと思うこと(これについては共通見解はないけど)。景色を見てきれいだと思うこと。歌を聴いていい歌だと思うこと。

無性に日本語で、分けあいたくなったのでした。そこで、ただもう私の言ったことをリピートさせることにした。

(コーヒーを飲んで)な「おいしいねー」J「・・おいしいねー」

(きれいな景色を見て)「きれいだねー」「・・きれいだねー」

(映画を見て)「おもしろかったねー」「・・おもしろかったねー」「ねー」「ねー」

J氏としては、繰り返したらいいようだったので繰り返してみた、「ね」をつけてみたらいい感じだったのでつけてみた、という程度だったのでしょうけど、私のほうはそれだけでかなり満足できた。表現は時に方便。「ねー」「ねー」といっているうちに、なんとなく分かり合えたような気になってくる。

相手の発話を繰り返す、「ね」をちょっと伸ばし気味に言ってみる、それだけで、共感を示すことができる。これは初級の学習者にだって十分使える表現なのでは?別に敬語まで勉強してから、終助詞を覚えなくたっていいはず。シラバス(学習項目)の再構築というものがいろいろ言われてますが、「ね」はけっこう前倒しにしたっていいのではないかな、とストレスが解消できた身としては思います。(参考文献:『コミュニケーションのための教育文法』くろしお出版)

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October 19, 2005

「よかった」の混乱

一日何回言っているかわからないほどよくうつあいづちの一つに「よかった」というものがある。

①A:台風が東の方に逸れたらしいよ。

B:あ、ほんと。よかった

とか、

②A:なんとか試験に受かったよ。

B:あ、よかったね~。

とか。その他多数。

言っている本人も聞いた相手も気持ちがよくなる言葉なので、私もよく使っている(と思う)。時には「よかったよかった」と言ってみると、自分も相手もかなり気分がいい^^。

韓国語習い初めの頃、せっかくいいあいづちなので、韓国語でも言ってみようと思い、「いい/チョッタ」の過去形「よかった/チョッアッタ」をとりあえず言ってみた。すると通じない。

よくよく聞いていると、いくつかのバージョンがあるよう。日本語では「いや~よかった!」の一言で終わるものも状況によって言い方が違うのだ。

まず、「タヘンイダ(直訳すると「多幸だ」)」

これは、危ないと予想されていたことが免れて、大きな問題にならなくて「よかった」の時。(①のような状況)

それから「チャル トェッタ(直訳すると「うまくいった」」

これは、何か成功した、よい結果になっって「よかった」の時(②のような状況)

だから、韓国語で「よかったね!」とあいづちをうとうとするとき、ふっと立ち止まってしまう。「え--っと、何か問題が避けられたんだっけ?単純によい結果になったんだっけ?」もっと上級者になれば、そんなことは考えずあいづちが打てるんだろうけど、私はこれを言おうとするたびに、頭の中をくるくるっと何かが駆け巡る。

ちなみに、韓国語ではこの場合、あいづちそのものを打たなくっていい、とも言えるかも。韓国人同士が話しているのを聞いていると、一人が一方的に話しているような印象を受けることがある。日本語はあいづち率がかなり高く、あいづちを打っていることが相手の話を聞いているサインになるけれど、韓国語は相手の目をじっと見、時々こくりとうなづく、ということがサインのよう。なんだか力強いサインだ・・。

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October 14, 2005

自分の呼び方

日本で日本語を教えていたときの学生さん(男の子・韓国に戻ってきた)に会ってきました。日本人の彼女といっしょに3人で楽しい時間を・・・。

そこで、日本にいたときには気づかなかったものに気づいてしまった。彼と彼女とは日本語でタメ口(これに変わるなんかもうちょっと響きのいい名称ってないのかな?)で話しているんだけど、彼の一人称が「わたし」・・・。

今まで私とは「です」「ます」で話していたので、「わたし」は全く違和感なかったんだけど・・。(実は彼がタメ口で話しているのをはじめて聞いた気もする。)よく考えてみると、日本語の教科書で「ぼく」や「おれ」の練習が載っているものって見たことがない。フォーマルな場でも使える最大公約数ってことで「わたし」を使っているんだろうけど、男性の学習者にとってはかなり重要な問題なのでは?一体どうやって「おれ」とか「ぼく」を習得していくんだろう・・・・!?

前々から思っていたのですが、男性は自分を「おれ」と呼ぶか「ぼく」と呼ぶかをどうやって、いつ決めるんだろう。幼稚園の時から「おれ」ってあんまりないと思うけど、女性が知らないうちに、どこかのタイミングで選択を迫られていたのかな?

周りを見渡してみても、自分を「おれ」と呼んでいる人はなんか「おれ」っぽい感じだし、「ぼく」の人はなんだか「ぼく」の雰囲気を醸し出してる。日本語は主語(動作主)を省略することも多いとはいえ、自分をどう呼ぶかというのはその人の与える印象のかなりの割合を占めている気がする。

「おれ」への乗り換え?トレーニング中とのことだけど、なかなか難しいらしい。長いことそれに無意識で教室にいた身としては、ちょっと責任を感じたりも・・・。

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August 17, 2005

「ちゃん」のつけ方

目下、日本語猛勉強中の友人が、名前につける「ちゃん」は、どんな相手につけたらいいのか、と聞いてきた。

・・・たしかに「○○ちゃん」と呼ぶ定義って難しい。

親しむをこめて呼ぶ言い方かというと、そうでもなく、「○○ちゃん」と呼んだほうが親しく感じる相手と、付けない方が親しく感じる相手がいる。自分のことを振り返ってみても、「○○ちゃん」と呼んでくれる人もいるし、つけないで呼んでくれる人もいる。・・・それによって相手との関係性も何か違うような気もするんだけど、何とも言葉にしにくい。

子供につけることは多いし、どちらかというと「かわいらしい」というニュアンスが加わるような気がするけれど・・・。

・・・と、その友人が「BOAはかわいいと思うんだけど、『BOAちゃんの新しい曲いいよね』と言っていいか」と聞く。う~ん、それは友達としてぜひともやめてほしい^^;

名前を呼ぶだけで・・・私たちはその一言に、相手との関係性を表現することができるし、逆に言えば無意識に表現されてしまう危険性もあるんだなあ、と。

ところで、「そういえば、私は姉をおねえちゃん、祖父をおじいちゃんと呼ぶよ」と言うと、「おじいさんに「ちゃん」なんて・・・」とかるーくショックを受けているよう^^; 確かに韓国語では両親や祖父母を~様と呼び、敬語を使う・・・。

そういえば、日本語が上手な韓国人の友達が、「後輩が普通体(タメ口)で話すのはがまんできない」と言っていたことがある。日本語の「ちゃん」にしろ、普通体にしろ・・・礼を欠いた表現ではなくて、「親しみ」の表現でもあると思うんだけど、韓国の方は親しみ=失礼さと捉えがち。「親しみ」の定義ってむずかしい・・・。

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August 12, 2005

書いたはずのもの 書くはずだったもの

誰でも一度ならず経験したことがあると思いますが、仕事をしていて・・ファイルを保存をせず仕事をしていて・・・フリーズしたため、数時間分の仕事が泡と化すこと。とくに私のPCは韓国語WINDOWSだからか、ルビにめっぽう弱く、ときどきしばらく考えた挙句(その瞬間は祈るような気持ちになります)、思考が停止してしまいます。

あのときの誰に怒っていいのかわからない気持ちは、どういう風にやり過ごしたらいいんでしょう?

今日も2時間ほどの仕事が全て無駄に・・・。もう一度思い出しながら書くものの、全く同じというわけにはいきません。

誰のエッセイだったか忘れましたが(確か女性の小説家だった)、これに関してかいてあったこと・・

小説を書いて完成!と思っていたらフリーズしてしまった。しょうがなく、書き直したけれど、何度思い出そうとしても数行足りない。しかたなく別のことを書き足しているうちに、フリーズ以前のものとは違う展開になってきてしまった。あの書いたはずのものは自分の記憶にはなく、PC上には保存されておらず、どこに吸い込まれてしまったのだろう・・と。確かに存在して完結したはずの物語は今どこに存在しているのだろう・・・、と。

フリーズしてやり場のない気持ちを抱えるたびにこの話を思い出します。(それにしてもよくもこの小さな怒りをここまでロマンティックに広げられる・・)私が作ったのはたんなる教材の例文程度なのでここまで壮大なものではないけれど・・・。世にでそこなったあの文章はどこに存在しているのかなぁと思います。

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April 19, 2005

冗談の語学力

ある韓国人の友人(わりとまめに返事をする人)から一週間ぶりにメールの返事が来たので

「(返事が遅かったから)前に私が送ったメールに怒っちゃったのかと思っちゃったよ~^^」

…と冗談を込めて(込めたつもりで)書いたところ、数分もしないうちにメールを開いて、あわてたような速攻の返信。

「そんな、まさか。そのような心配はしないでください。―以下理由列挙」

う~ん・・・私の語学力では

「私のメールで怒らせてしまったのではないかと大変心配しております。早急なご返信を」

ぐらいのニュアンスで伝わってしまったのかも。^^マークでフォローしたつもりが、それをしのぐかた~いニュアンスだったのですね…。

仕事の中のやりとりで覚えた韓国語なので、私には気軽なやり取りのほうがすごく難しいのです。まだまだ語学力が冗談のレベルに達していないのに出すぎたまねを致しました・・・。

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April 10, 2005

詩人の予備軍

谷川俊太郎さんの詩のタイトルの中に

「私は生きるのを好きだった」

というものがある。「好きだ」は日本語では形容詞であるから、通常「テニスが好きだ」とか「あの人が好きだ」とか「が」をとり、心の状態を表わす。「を」は当然、動作の目的語をマークする。「を好きだ」とすることによって「好きだ」という感情が状態から一気に動的なものとして捉えられる。生きるということに対する渇望というか貪欲な感じがよく表れてくる。(もちろん、それが過去形であることにより、「そうではなくなってしまった自分」の寂しさのようなものもでてくるのだけれど)

と、谷川さんという詩人はつくづくそういう形式上の表現効果に敏感な方だなあ・・と思います。

・・・が、学生の作文を添削していると

私は私の恋人を大好きです。
私は私の家族を大好きです。
私は日本語の勉強を好きです。
私はお母さんが作った料理を大好きです・・・・

なんとも「動的」な「好き」が連発。。。なかなかの迫力。。。種を明かすと、韓国語での「好きだ・チョアハダ」は分解すれば「よいとする」。動詞であり、目的語は「を・(ル)ル」をとるので、韓国語の母語干渉からの誤用なのですが。。。「好きだ」が状態ではなく動作である辺りも国民性?

「を」の表現効果に心を打たれていた者としては、あやうく勝手に感慨すら覚えてしまいそうになります。もっとも、彼らにはそんな意図は全くないんだと思うんですが。。赤を入れるのをやめて、このまま直ることなく、すくすく育ってほしいなあ~という気持ちもあるのですが、そうもいかず。小さな詩を摘むことは少々つらくもあります^^。

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April 01, 2005

表現の著作権

下の記事↓のタイトルに使った「○○の効用」というのは「ありがとうの効用」だったか、「ごめんなさいの効用」だったかが、何かの文章だったか、歌詞だったか、詩だったかに載っていて、何かしっくりきたので覚えていた言葉だ。ここまで出どころがあやふやだと、どこからが借りてきた言葉で、どこからが自分の言葉なのかわからなくなってくる。「ありがとう」も「効用」も間違いなく辞書に載っている誰のものでもない言葉だけど、「の」を介して結びつけるだけで、誰かが生み出した表現になる。もちろんその「の」も誰のものでもない言葉(辞)。さて、表現の著作権はどこから生じるのでしょう?

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